AI時代に外国語、英語を学ぶ意味
いまの中高大学程度の英語力、へたな通訳、翻訳ならあっというまにAIで済むようになります。
それでも、外国語を学ぶことに意味があるとしたら…いや、私はあると思っているのですが…
人の話を外国語で聴くことで、心の避難所を作ること。
そもそも、私が通訳者として開眼したのはNHKの国際研修室。当時、結婚後転職した私学女子中高で「訳文をぜんぶ板書してくれる先生がすぐれた先生。それに比べたらあなたはただの外人」と言われ、退職を余儀なくされました。
居場所もなく、収入もなく、定期的に通えるところは心療内科とNHKだけでした。
普段は過去への後悔と未来への不安ばかりがエンドレズテープのように頭をぐるぐる。
「『あなたはうちの学校文化を知りませんね』と言われたとき、どうしてすみませんといったんだろう、どうして『もっと教えてください』と言わなかったのだろう。」「どうして、靴箱にいやがらせをされたときに、すぐに写真をとって総務部長に見せなかったんだろう。」
それが!
NHKの同時通訳講座でひたすらひとの聴いたらピタリと止まるではありませんか。
その清々しいことったら!
私は通訳トレーニングを通して「いま」に戻って来られたのです。
ふりかえってみれば、フェリス中高時代もそうでした。決して試験勉強、検定試験に関心があるわけではなく。先生にとっても優等生ではなかったと思います。でも、宣教師の先生の優しい慰めと励ましの英語が、心の糧でした。

私は耳がいいらしいので、周囲の叱りの日本語をそのまま覚えて勝手にリフレインしてしまう。それをアレンジして自分を責め続ける。
「なにをもたもたしているの。」「早く!」「また、要領が悪い。」「不器用ねえ。」
そんな悪循環がたまらないとき、あたまを宣教師の先生の英語の声で満たしていたんです。
なので、「英語を将来グローバルに活躍するためのツールとして明るく、ポジティブ」にすすめる人たちにはなじめません。波長が合いません。自己表現とか、自己主張とか、発信とか、別に二の次でいいんです。
外国語には涙が止まらないときにふっと息ができる部屋をひとつ作る力がある。
そんな部屋を用意したいと思うのは変でしょうか。
持続可能な社会のための通訳者、冠木友紀子プロフィール