近代日本初の女性翻訳家は福島のひとでした
「翻訳やってみたいんです。」
あ、そう。またなんで?
「だってなんかかっこいいから…!」
あのねえ???そういう人は沢山いるよ。最近Google翻訳もすごいから、ただ翻訳というのはどうかなあ。
ところで日本の女性翻訳家第1号って誰だか知ってる?村岡花子さん?いえいえ、もっとずっと前のこと。
私は若松賤子(わかまつしずこ)だと思っています。もちろんペンネーム。若松は故郷の会津若松。賤子は「神の賤女(はしため)」の意。1864年、会津藩士の娘に生まれるけれど戊辰戦争で一家は離散。利発な賤子を不憫に思ったのは横浜の貿易商の番頭大川甚兵衛さん。この番頭さんに養女として引き取られ、6歳でひとり横浜にやって来たのです。
列強の外交官、それこそ隠密がうようよしていた横浜。会津の隠密の娘に居場所があったと思う?
あったのです。
それはアメリカ人女性宣教師キダー女史が始めた学校。これもどうかしてる。まだキリシタンが禁じられていた日本にアメリカから女性が船に乗って来て学校を造るなんて。(その学校に行かせようと思う番頭さんもすごい。これはきっとビジネスマンのセンス。)
女性宣教師が志高かったのは間違いないけれど、もうひとつ事情があるそう。教会に女性聖職者が認められたのは比較的最近でしょう?当時はアメリカでも女性はなかなか活躍の機会を得られなかったのです。
この学校に賤子は7歳から通います。英語のみでなく博覧強記の教養を身につけ、たった一人の1期生として卒業。教員につきながら翻訳、執筆に活躍。なかでも名訳の評判高かったのがバーネットの「小公子」。
確かに学校が楽しくて夢中に学んだのでしょう。でもそれだけではなくて…賤子には独特の気配があるのです。背水の陣同志、失うものなどもう何もない同志の緊張感、覚悟を感じるのです。
だから、ずば抜けた。
日本語そのものが混乱していた時代、電子辞書なんかない時代に自分で言葉を見つけた、磨いた。
あなたもファッション雑誌で服を眺めるみたいに人が用意した選択肢をあれもいいな、これもいいな、と言っているうちは、まだ群れの中。点数競争、価格競争にまきこまれる。それはつまらないし、私なんかもたないと思うけどね。
自分の道を見出すのは、すべてを奪われる、失うような経験がきっかけのことも。それを世間は挫折、失敗と呼ぶ。でも恩寵の入り口は失敗の顔をしてやってくるようですよ。恩寵の入り口は自分にしか見えない。のんびり屋の私がそんな思いをしたのは31歳のとき。
あちゃー、31歳。長く肺を患っていた賤子が世を去った年。これでは朝ドラには短すぎますねえ。FTVあたりで2時間ドラマにならないかなあ。