「自分に用がある」感覚―内田樹さんに聞いた、レヴィナスとの出会い

グーグルで関連キーワードなどを調べてちゃらいタイトル考えても、結局違うことばかり書いてしまうようです。今日は正直なタイトルで参ります。

学びは個別、私的な体験

どうも学びというと同学年集団、テストによる競争というイメージが日本では沁みついています。でも、本来学びは個別、私的な体験で二つと同じ学びはないと思うのです。

いまの「小さいうちから英語」は前者の横並び徒競走的で、へんにプライドをくすぐるけれど、大して魂を育てないだろうと思っています。

むしろ、大人になってから個別、私的な出会いを通して自然と外国語を身につけた人たちはなんだか素敵です。なかでも興味深いのは内田樹さんに伺ったお話。

個別の出会いもひとりになる経験から。

内田樹さんはユダヤ系フランス人哲学者、レヴィナスの著作との出会ったとき、「町で見知らぬ外国人に肩をつかまれてわあわあ怒鳴られた感じ。何を言っているのかさっぱりわからないけれど、この人は『自分に用がある』と感じた。」のだそうです。

この「なんだかわからないけど自分に用がある」直感が大事なんです。「わかりやすくてみんながやっている」のイワシの群れの逆です。

内田さんはレヴィナスに会いに行き、声を聞いたあとは翻訳も楽になったとのこと。そう、声が聞こえるって活字の向こうにいる唯一無二の著者本人をありありと感じているということ。

私も思い当たる経験があります。レヴィナスのような個人との出会いとはちょっと違いますが…イギリスの詩朗唱の英語、トマティス博士のフランス語、オーストリアのバイオマス企業のドイツ語。「用がある」感覚は強烈でした。

英語の教科書一生懸命読んだり、付属の音源CD聴きこむのもいいけれど、こうした出会いの足元にも及ばないでしょう。

「これを書いた人は自分に用がある」

自分に用があると思えない情報はあっさり離れる。発信するときは用がある相手を想定する。

情報過多の時代、用のない情報につきあってまごまごしていたら、外国語どころじゃありません。

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