「先生」と呼ばれるなら〇〇算ではなく△△算を

こんにちは。通訳藝術道場の冠木友紀子です。

若い人たちから「先生」と呼ばれると、しゃきっとしますねえ。

私も以前は中高生から「先生」と呼ばれていました。いまも大学生、通訳道場の生徒さんからは「先生」と呼ばれています。私にとって「先生」って「生徒」を面白がってます、応援団長です、という意味ですが…もっと小さい子どもたちから「先生」と呼ばれる立場の皆さんはなかなか真剣なようです。

「さあ、しっかりしなくちゃ。」
「自分の学生時代はなにもアップデートしない教師たちにわけのわからない校則をで縛られた…だから、これからの子どもたちにはいい教育を提供したい。」
「ホリスティック教育の資格もとったから、ちゃんとやらねば。」
「最近は子どもの発達も話題。感覚統合や原始反射も学んで授業にプラスしたい。」(日本語で得られる小児科以外の原始反射情報はほぼINPPの剽窃です)

それは誰のため? こんなふうに思っていませんか?

「このひどい教育システムのなか、次はだれが担当するかわかったもんじゃない。せめて自分が担当している間はよいもので満たしたい…」

それは「先生」自身のエゴです。メサイア・コンプレックスです。メサイアではない自分を認められない心のくせです。

若いころに、親や先生にありのままを認められなかった、自然にのびのびとはしていられなかった、そんな思いをひきずっていませんか?

教育、educationの語源は引き出すこと、と言われます。しかし、ラテン語源学 としてはこれはガセネタ。引き出すこと自体余計なお世話。ほうっておけば抜ける乳歯をひっこぬいているようなもの。

もし子どもたちの可能性を引き出すことができるとすれば、それは不可測な「ノイズ」に満ちた自然の十八番。理想を言えば、10歳くらいまで子どもたちは野に、森に放っておくことです。ひとりで生き物を観察する、心もとないときは仲間と交流する…1年生から教室につめこんで無理やり教えていることなど、勝手に身に着けることでしょう。5,6年相当、10歳くらいから学校に通えば、だいたいのことは2年ですむでしょう。

いまの学校教育制度は発達がゆっくりな子どもには無理を強い、利発な子はひまにさせますが、互いの助け合いを促すのはうまくありません。それなら、それぞれ、自然の中で過ごした方がいい。

自然の中で過ごすのに比べれば、文科省一条校の教育だろうがナニヤラ教育だろうが、どんぐりの背比べ。(まあ、ナニヤラ教育のなかで授業という看板のもとで自然遊びをしているのは、まあ、なかなかやるな、と思いますが。)

というわけで、ゆめゆめ「いいことしたい」エゴでセラピー足し算をなさいませんように。子どもを教室で忙しくさせるだけです。子どもたちをあなたのセラピストとして利用しないように。

どうしても新しい要素を加えたければこっそり割り算なさいませ。

そもそも人が人を「教える」など不可能です。「先生」のお面をかぶろうとしてもすべて学び手はお見通し。

ただ「先生」がそのままでいる。生徒たちを「面白がる」。先生たちに面白がられる生徒たちはごきげん、元気です。

これで十分ではありませんか。

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