オバマ大統領 広島演説 「道徳の目覚め」に思うこと
オバマ大統領の広島演説、少しずつ積み重ねた通訳もひととおり終わり、今は余韻の内にいます。
なんとなく気になって仕方なかったのは終盤の「道徳の目覚め」。
立場を特定せず、みんなに「道徳の目覚め」を呼びかける…?
そういえば、アメリカの大統領としては文学的すぎるっていう批判も見かけたし…。
でも、何かある気がしてならず、しばらく自然に引きずることにしました。
そしてふと思ったのです。
自分のなかの加害の種と向き合う
私にとって「道徳の目覚め」とは「自分のなかの加害の可能性を見つめること」なのだと。
「加害者」の側、ではありません。ナチス、広島における米軍、泰緬鉄道における日本軍、ポルポトの側、ではありません。
加害行動と人間を分けたいと思います。
「加害者」とすると、加害行動を特定の時代、地域に生きて「悪さ」をした人たちに押しつけて蓋をしてしまいそう。そうではなく、自分も「悪さ」の種をひっそり持っているのでは、と問いたい。そのために人と行動を分けたいのです。
そもそも、みな赤ちゃんの時は何も持たず可愛くオギャーと生まれます。100%邪悪な人間も、100%善良な人間もいません。生きているうちに天使と悪魔を併せ持つようになるのでしょう。
加害の可能性を思う。
そう考えたら、詰まっていた鼻がすっきり通ったような思いがしました。
日本人だから日本軍のしたことを謝罪している?
たとえば英連邦墓地での戦没捕虜追悼礼拝。
日本軍が捕虜を虐待したのでのちの世代の私たちが追悼、謝罪しているというのも事実です。でもそれだけではありません。
一個人としてあの虐待の種を持っているのでは、問うているのです。
被害者を労り、償うのも大切なことです。
ただ、被害者の心境を想像するのはそう容易とは思えません。少なくとも私には、自分の中の悪さの種のほうがリアルです。
悲惨な事件について街頭インタビューで答えるひとたちが被害者に共感し、加害者を捌くような物言いをするのをときどき見かけます。
多数派の耳に心地よいこうしたプチ裁きに一体何の意味があるのでしょう。
自分のなかの加害の可能性にまず思いを致すことなく、被害者の心境に同情し、正義を語るのはノゾキだとすら思うのです。
律法学者やファリサイ人が姦淫の現場(!!!)から引きずり出した女を連れてきてイエスに石で打ち殺すんだよね、迫ります。地面に何か書いていた(ここ面白い)イエスはこう答えます。
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってうき、イエス一人と真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを積みに定めなかったのか。」女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」
(ヨハネによる福音書 8章7節より できたてホヤホヤの聖書協会共同訳聖書より