瞬時に美しい日本語で通訳するために
「わかるんだけど日本語が出てこない!」
ということありませんか?
オバマ大統領広島演説の一節 ”that moral awakening will come”。
awakening とcomeは英語としては全く素朴な言葉。
でもcomeを「来る」と訳すことにためらいを感じてほしい。
通訳道場で私が提案した訳は「道徳への目覚めがおとずれることを」
「えっ!どうして一瞬でそういう日本語が出てくるんですか。」
えっ?いつも私ってそうじゃない?え?違う。そう、違う。こりゃまた失礼いたしました。
確かに普段の会話(listen to reply)と通訳するとき(listen to interpret)は意識が全く違います。通訳するとき、私は日本語の讃美歌から言葉を汲みだしているようです。たしかに毎日毎日、少しずつ積み重ねた確かな土台です。
というわけでCATS1期では宣教の意味ではなく、言葉の泉として讃美歌にふれることにしました。
通訳者になりたかったら、言葉の泉を豊かに持つこと。「日常会話」もひとつの泉。でも通訳者は自分を超える泉をもちましょう。言葉は体験や人生を結晶化できる。でも体験の範囲内の言葉にとどまるのは傲慢です。言葉のプロではありません。さて、あなたの新しい泉はどこに?。
よろしかったら、私の泉もごらんください。
中学校のクリスマス愛唱歌のひとつ、ロッシーニの「3つの宗教合唱曲 信仰・希望・愛」の「愛」。その歌詞に12歳の私は目が点になりました。
愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて
友となりし我らは
苦しみを分かち合わん
ん?「愛なる主の御手に抱かれてもう安心、幸せ、ありがとうございます」じゃないんだ!
友は苦しみを分かち合う。
苦しみを分かち合うのが友である。
苦しみを分かち合う友どうしを天は愛で守る。
これは本当だ、と幼いなりに響くものがありました。
分かち合うのであって、慰めるのでも、ポジティブに言い換えるのでもありません。悲しみは悲しみのままに分かち合うのです。悲しむこと、泣くことを否定、排除しない。それがcompassion(共に+痛み)。共に悲しみつくしたときにおのずと変わりゆくものがある。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
今ふり返ってみれば、福島との関わりもまったくこのとおりでした。
2013年、アメリカからこんなメールが来たこともあります。
「私はストーリーテラーでヒーラーでもあります。○○メソッド、○○〇、○○の資格も持っています。東北のひとたちのトラウマを癒し、再び自分らしく輝く人生を歩めるようにしてあげます。あなたは東北に詳しくて通訳も上手と聞いています。案内して下さい。」
やだよ。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
そのためには、まず聴くこと。ただそれだけのことが、いつまでたっても容易ではありません。
ロッシーニ 「3つの宗教合唱曲『愛』」
「愛」
愛に満てる我が主よ
汝が御手に抱かれて友となりし我らは 苦しみを分かち合わん
愛に宿る主なる神貧しき者に望みを与とう
愛に満てる心は世に光をもたらさん
汝が光覆う所 憎み争い後を絶ちて
永久に知らす主の愛 戦いをうち沈め憎み争い後を絶たん
愛に宿る主なる神、貧しき者に望みを与とう
(フランス語)ぜひCD版をどうぞ。画像をクリックするとアマゾン試聴ページに飛びます。