愛は学校の手洗い場である

ある教育研究グループではシュタイナー教育について海外講師を招いたセミナーを数多く主催。通訳としてずいぶんお世話になりました。

そんなある日、不穏な空気。リーダーとメンバーの間がぎくしゃくしていたのです。

「彼は自分で言い出したこと以外はやらせてくれないんだよね。」
「もっとこうしたら、と提案すると『もうやってる』って怒る。」
「私なんか『じゃあ君がやれば』って言われた。」

―どうしてほしかったの?

「リーダーなんだからグループ全体にとってこのアイデアでいいか俯瞰したうえでyes, no出してほしかった。彼を責めるつもりなんかなかったし。」
「どうして個人的に反応しちゃうんだろうね。なんか戦闘態勢でびびってる。」
「愛情不足なんじゃない。難しい家庭だったんだって。」

ーねえねえ、リーダー論までは立派だったのに、だんだん話がずれてるよ。プライベートな詮索はいやだなあ。それに愛情不足って簡単に言うけどさあ、人の心に簡単に土足で踏み込む人が多すぎるよ。

愛って学校の手洗い場みたいなもんだと私は思ってる。お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、学校の先生、友達、近所のおばさん、習い事の先生、魚屋のおじさん。みんなそれぞれ口径の違う蛇口。

なつかしいなあ~

でも蛇口が水源じゃない。水源はもっと共通の大きなところ。井戸?水道なら屋上のタンク、市の浄水場、横浜なら山梨の道志村、雨、雲…

だから蛇口ひとつバカな男子が消しゴム突っ込んで詰まらせたとしても、隣の蛇口からブヒャ―ッと出てくる。

ひとつ詰まってもどこかが開いている。全体として足りるようになっている。ぜんぶ詰まったらトイレが洪水か貯水タンクが破裂だ(自分でもよくわからないこと言ってますが)。

だから、もし彼が詰まった蛇口の前で被害者の顔で立ち尽くしているように見えるなら…まずみんなが近くでブヒャーッと噴水するほうが先なんじゃない?

大丈夫、渇水はしないから。蛇口の内側きれいになるかもよ。けちけちしてると干からびちゃうよ。

 

 

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