「すべての宗教はひとつの頂を目指す」?
持続可能な未来のための通訳者、冠木友紀子です。
よく聞くんですよね。
「宗教はそれぞれに違う山道からひとつの頂を目指していると思うわ。」
そうだといいんですけど。耳ざわりもいいんですけど。なんだか違和感がありました。でも「違う」というほどの根拠もなく「うん、そうかもね」なんてお茶を濁していました。
でも…このごろふと思うのです。
方向が逆じゃない?
諸宗教はひとつの頂に収斂しようとしてきたのではなくて、ひとつの源からバラけ続けてきたのでは?それが人のさがなのでは?
人智を超える究極の存在が、世界各地で異なる現れ方をした。それぞれの現れ方を慕う集団が、組織を強固にするためにいろいろな説を加え、分裂を繰り返してきた。(ちなみにキリスト教が一神教で冷厳、日本は八百万の神で寛容、なんていうのは荒っぽい話です)
私は学校でキリストの世界観に驚き、キリスト教の「中の人」として育ちながら、家族の葬式仏教を離れるわけにもいかず、常に矛盾と緊張をかかえていました。10代のころはプロテスタントの急先鋒よろしく葬式仏教を理詰めで責め立てたこともあります。
それでも洗礼を受けるのは「違う」と感じてきました。「教会」の一員となることや、パウロの語る直線的な時間感覚に違和感があったのです。あまりに俗な葬式仏教にげんなりしながらも、父が大切にしていた般若心経の世界には惹かれていました。子どもの頃から、どちらか一つだけを居場所とできずに、ただ問いと共にここまで来ました。
そして思うのです。何かを選ぶことが他のすべてを否定することにつながるのはおかしいと。
ひとつを選ぶことが、他のすべてをも認めるような選び方もあるのではないかと。
そうでなければ、ひとつを選ぶ必要はない。
世界はひとつ。でも、人間は分けたがる。でも、世界はひとつ。
ヒントは「時間は直線的ではない」のようです。
おそまつさまでした。