野生人には不必要?目標設定、ゴールイメージ

「ゴールイメージが描ければそこから逆算できる!」
「目標を明確に設定して!五感でリアルに想像して!」
「ダメな連中はこれができないからダメなんだ!」

…こういうフレーズがいまいち苦手。だから私ってだめなんだ
と思ったことはありませんか?
きっと尋ねた人のまなざしも「そうだよ、だからお前はだめなんだよ」と
言っているようだったのでは。
でも無理して答えても違和感にさいなまれるばかり。

私もそうです。

ただ確信に近い直感がありました。
「そうじゃない人種もいる。決して行き当たりばったりなんかじゃない。」
「うまくいっている人たちの中にも目標設定、逆算をしない人たちがいる」
この誤解されかねない人種を照らし出したい、堂々本領発揮してほしいと願ったのです。

そもそも10年前の私がどんなに想像をたくましくしたとしても、今の私は想像もつかなかった。他人の眼には相変わらず大したことなくてもそんなこと構わない。大いなる力が、私が私の道を歩むよう確かに導いていると感じてきた。道を外れそうになるとときにはやさしく、ときには往復ビンタ、飛び蹴りでもとの道に連れ戻しながら。そして今あのとき思いもよらなかったところにいる。でも深いところで「やっぱり」と思っている。余計な「予想」などしていなかったから、何事も「想定外」なんて拒まずにすんだ。すべてその瞬間に正面から向き合えたとも思ってる。あの東日本大震災も。

さてこの人種、生物学者の福岡伸一さんの著書「世界は分けてもわからない」
にある、「マップヘイター」にどうもそっくりです。
朝日新聞(2016年7月14日朝刊35面)の連載記事「動的平衡 33」に
福岡さんご自身がすっきりまとめていらっしゃいます。
(著作権侵害の意図はありません。みなさんなるべく朝日新聞かご著書ご覧ください)
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今の私は自分ひとりの仕事に関しては
まったくの「マップヘイター」。
地図は好きなのでマップフリー(地図なしで大丈夫)の
ほうがしっくりきます。地図に依存せず行動するだけのことです。

初めて訪れる海外の町でも迷子になることがありません。
ほぼ最短距離あるいは自然な道のりで、
お店でも博物館でも行けてしまう。
ついでに言えば、初めて行った町でもほぼ100%
評判のレストラン、マッサージ屋さんが選べる。

なぜ?
視界の中のモノとモノの関連、景色から、
視界を超えた全体を嗅ぎ付けているのだと思います。
全体を嗅ぎ付けるのに必要ない情報が目の前にあっても
それは無意識に捨てているのでしょう。
フラクタル思考と言ってもいいのかもしれません。
これは脳的な言語のスピードでは追いつかない
身体知の世界のように思います。
(宮本武蔵がいちいち考えてたら負けるでしょ)
でも、大きな会社の社長さんがマップヘイターでは周りは困るのでは…
かといってマップヘイターがマップラバーのふりはできないし…

あ!!!!

私がお世話になっているある社長さんは
愛すべき途方もないマップヘイター。
この方と仕事をするとき、
私はハイブリッドのインタープリターでした!
今にも駆け出しそうなマップヘイターさんの嗅覚経験を
マップラバーさんたちに言葉で伝えているのです。

逆に、私が言語と人間についてあまりに直観的な、
一般的にはぶっとんだ話を始めると
この社長さんがインタープリターになってくれるのです。

私は地図などない野山を駆けずり回って育ちました。
疲れて寝床に入ると、壁にはたくさんの地図。
祖母と母のお話タイムがない日はこの地図を眺めたものです。
行ったこともない遠くの国や町の景色を
等高線や建物、農地の記号をたよりに想像しながら
眠りにつきました。
地図は大好きですが、使い方がマップラバーとはだいぶ違います。

これまでは「ダメな奴」と烙印を押されがちだった
マップヘイター、マップフリー。
これからが出番のようですよ。

だって、ほら…。養老猛さんの「唯脳論」より引用します。

「社会は脳の上に成立し、個人は身体の上に成立する。それはあまりにも当然のことである。しかし、社会が個人の集合によって成立するというのは、この国では「お題目」に他ならない。個人が新体制によって成立する以上、この国には神風特別攻撃隊ならあるが、「個人主義はない」。(中略)

かつてはそれ(身体性の弱点)を補強する多くの「教育」があり、「自然の力」があったのであろう。しかし、いわゆる「伝統的」な社会の訓練は、日々失われていき、自然はかつての力をもはやまったく失った。のちには、農薬まみれで「自然には」決して保たれることのない芝生で覆われた、ゴルフ場が存在するばかりである。(中略)

われわれに復習すべき自然がじつはどこにあったかは、もはや明瞭であろう。それは「外部の自然」ではなかった。ヒトの身体性であり、ゆえに脳の身体性だったのである。自然はどこに隠れたわけでもなく、失われたわけでもない。われわれヒトの背中に、始めから張り付いていただけのことである。」

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