「話し言葉で通訳してもいいんですね。」えっ?!
「通訳って話し言葉みたいに生き生き訳していいんですね。」
「???」
「ですます調で訳すものだと思っていました。」
「ああ、某公共放送のアナウンサーみたいに?」
あれは明治維新以降にこしらえた言語。音声由来の生命力は高くない。 通訳は音声言語を音声言語に再現する仕事です。音声は文字より格段に情報が豊か。しかもその情報は文字や理屈では追いつかない。音楽だから。
スピーカーが親しみをこめてカジュアルに話すなら、通訳も親しみをこめてカジュアルに。
ノーブルな雰囲気で上品に、なら通訳もそのように。
だから通訳者は抑えのきいた役者でいることが大切。
だって考えてみて。吉幾三さんがエジンバラでライブをやるとして、インタビューがキングス・イングリッシュで通訳されたら笑っちゃうでしょ。
しょうがいない?そんなことない。それは20世紀の諦めです。
文字化できない部分も音楽としてきちんと聞いて、わざとらしくならない程度に再生して。 なんでもかんでも公共放送アナウンサー調では、通訳が必要なことをせず、勝手に余計をしていることになる。

本当はね、英日通訳、といういい方には違和感があるのです。
日本語にも、英語にもいろいろな方言がある。方言こそ心を伝える器、生き生きとした音楽。
標準語になると心のチャンネルが固く、細くなる。
だからヨークシャー弁・いわき弁専門通訳者、バーミンガム弁・相馬弁専門通訳者がいたら理想。地方と地方の心がいっきに通じ合う。
震災の後、メディアでは「がんばろう日本」って盛んに言っていたでしょ。でも福島の、私の友人たちの口から聞かれたことはなかった。町ののぼりでさえ「がんぱっぺいわき」。
中央の文字言語が地方の音声言語を塗りつぶしていくのは危うい時代ですよ。「進め一億火の玉だ。」「欲しがりません勝つまでは」訛っていないでしょ。
方言は、地に足をつけ、天を仰ぐ人たちの心の免疫くらいの大きな役割を果たしていると思うんですよ。 だから、通訳養成、地方の力にしたいのです。