【英詩講座レポート⑦】「見る」は「見られる」-“Fishes” by Roy Wilkinson
こんにちは。通訳藝術道場の冠木友紀子です。
シュタイナー学校の先生たちのための英詩講座、英語圏の4年生向けの詩シリーズも前半が終わりました。まだたった7篇ですが、もっともっと長い旅をしてさまざまな景色を見てきたような気がしてなりません。
今回はシュタイナー教員養成に尽力したRoy WilkinsonによるFishesでした。2時間の講座の一部をダイジェストでお目にかけます。
シュタイナー関係ではよく「すべてを知れ」と促されます。医師は医学のハウツーだけではなく、教師も専門科目のハウツーだけではなく、音楽家も演奏スキルだけではなく…皆、音楽、哲学、歴史…すべてに心開くことが求められます。大変?そんなことはありません。「専門外だから関係ありません」という姿勢では到底想像できない、世界への畏敬と喜びに満たされる道です。その道を生涯かけて歩んだのがRoy Wilkinson (1917-2007) と言えそうです。
おお、また「めだかの学校」みたいな詩?と思いきや、とんでもない。人間とは何者か、お前はどう生きているのか、と問われるようです。
FISHES In the ever flowing water Up and down I love to roam, Whether it be lake or river Water, water is my home. Perhaps a glimpse of me you saw, In the water something shone. You looked again, what did you see? Nothing, I had gone. | 魚たち たえず流れる水のなか ここかしこへとさすらいたい みずうみであれ、川であれ 水、水こそは私の住みか もしかして、ちらりと私が見えたでしょう。 水のなかに何かがきらり あなたもいちど見入って、何が見えた? なあんにも。もう私はいなかった。 |
一行ごとに揃った行末の音(脚韻)と、強弱のリズムが淡水のさざ波のようです。
さて、第1連、水が魚の住まいだというのは、当たり前と言えば当たり前。「水魚の交わり」(劉備と諸葛孔明のこと)など日本語でもなじみのある表現です。
さらっと読み流してもいいのですが…、水と魚を鏡に自分たち人間を振り返ってみると…
35年ローンを組んで手に入れた家(ハウス)も、コロナ以前は寝に帰るばかり。リモートワーク用の部屋はないし、1日中在宅する家族の食事作りにうんざり…。おやおや。
魚は水を専有しません。食べ物も、排せつも水中に。汚い?そんなことはありません。不垢不浄の循環です。
いきなり魚をお手本にするわけにはいきませんが、人間のhomeも見直す機会ではないでしょうか。
ひとりごとのような第1連から打って変わって、第2連はyouが登場します。
youは詩の読者、人間と考えるのが自然でしょう。(まあ、猫でもいいんですけど…)
水中で魚が体をくねらせでもしたのか、一瞬光った。それを人がちらりと見て、何だろうともう一度のぞき込むと、魚はもういなかった、というだけの出来事です。
さて、その出来事はどう語られているでしょう?
再掲しますと…
Perhaps a glimpse of me you saw,
In the water something shone.
どうもこの魚、自分のことをsomethingなんて言って、見ていた人間の側から語っているようではありませんか。
You looked again, what did you see?
Nothing, I had gone.
人は魚を見ようとするけれど見失っている。一方、魚のほうがよほど人を見通している。自分が去った後、人が「あれれ?」と覗き込んでいるところまで見届けている。そして、人には何も見えなかったのを承知で「何が見えたの?」なんて訊ねるのだから、一枚上手。
私たちは魚を釣りの獲物として、食物として、ペットとして…「対象」として「見て」いるつもりでいます。
こんなふうに、魚に見られているとしたら…
見るは、見られる。
見られることを想わない「見る」はそろそろ終わりにしませんか。
6月19日 シュタイナー学校の先生のための英詩講座 第8回はWalter De La Mare のUnstoopingを読みます。単発参加OKです。