「こう弾きたい」イメトレが空振りになるとき

「いつまでもまるで進歩しない」と家族にもバカにされていたバイオリン。
 
 
幼く聞こえるのは弓が安定しないのも一因。でも安定させようと心がけて練習しても一向に安定しない。
 
 
 それが、思いがけないことで突破口が開けました。
 
 
 「まだ弓の半分、3分の1の感覚が身体に入っていませんね。」
先生は弓に目印のシールをつけてくださいました。
 
こりゃ老眼には厳しい…
 
 
それからは弓を見ながらその目印で止まる開放弦の練習。
 
弾いては目印のところでピタリと止まる。目を閉じて弾いて、止まって、目を開ける。ずれていたら目を開けてやり直し。また目を閉じる。弓半分の練習、3分の1の練習。
 
 
えんえんと、これだけで30分なんてしょっちゅう。音楽でもなんでもありません。安定、不安定のことなんて忘れてます。
 
 
何が楽しいのかって?別に楽しいからやっていたわけではありません。
 
 
でも不思議と弾いていることを感じない感覚になってきたのです。瞑想もどきですね。
 
 
そして…
 
 
ん?
 
 
弓がぴたりと安定している。
 
 
それは不安定だったころには想像しようのない感覚。
 
この感覚を知らない自分が「あの感覚がほしい」と設定することは不可能。何がどうなって不安定だったものが安定したのか、頭で考えてもまだ追いつかない。身体は頭よりアタマがいいって本当。
 
 
語学も同じことですよ。
 
 
「できる前には『あれができるようになる』という目標設定をすることができません。『あれ』が身体実感として存在しないんですから。そのような部位があり、そのような働きをするとはかつて一度も思わなかった部位が、現に活発に働いているのを実感するときに、修業の意味は事後的・回顧的にわかります。ですから修業がもたらす成果を、修業開始に先立ってあらかじめ開示することは不可能なのです。」
 
(「修業論」内田樹著 光文社)
 
 

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