第1問「明治日本の電力会社数、最大どのくらい?」の答

答) 「は」の130以上。でも130どころじゃござりやせん。

お待たせしました。あらやだもう2か月近くたってしまって。皆さん、「経世済民の男たち」は楽しまれましたか?吉田鋼太郎さんの松永安左エ門、見ごたえがありました。さすがシェイクスピアに通じた舞台人です。松永がときどきリア王に見えたり、マクベスに見えたり…さて、ここからはドラマに勢いづいた歴史の学びです。
電力事業の始まりは電灯事業。家庭に発電機を貸し、電灯をともし、昼間のように明るい時間を少しでものばすことでした。町の豆腐屋さん、牛乳屋さんのような…提灯屋に毛が生えたようなものだったのです。まだまだ製造、輸送には石炭が用いられ、頼りない電力はまだ主要なエネルギーとは考えられていませんでした。松永も明治37年の結婚のころは石炭業で大儲けしています。

ところが、電力を「市民の足」と再定義したことで新しい世界が開けます。明治42年、松永は今の西鉄の前進、福博電軌を設立、専務取締役となります。このころから電力は各地で電灯屋から運輸業、製造業に大きく乗り出していきます。

なんと、明治42年、全国の電力関連事業(発電のみではない)は945を数えた、と幻の「東京電力30年史 25ページにはあります。これは当時の人口を考えれば今のコンビニ並みですね!なんでもコンビニ再編でファミマのおとなりがファミマ、なんていう事態もありえるそうで。

明治末、関東だけでも数十の電力会社が!
明治末、関東だけでも数十の電力会社が!

当時の電力事業も同様、各地でし烈な生き残り競争が繰り広げられました。アパートの1階はA社で2階はB社、朝起きると田んぼの真ん中にC社の新しい電柱がにょっきり、なんていうこともありました。

こんな調子ですからいくら強い会社でも値を釣り上げて大儲け、というわけにはいきません。逆にダンピングで無理を重ねます。当然、停電も頻発します。そこで「本当に国民のためにやっているのか」と正義を盾に批判し始めたのが国でした。そのとき味方につけた相手は…次回のお楽しみ。

お世話になっているある方から、とても大切な本「東京電力三十年史」をお借りしています。東電第四代社長の木川田一隆さんは「社史を作ってはならない」とおっしゃったそうですが、没後、平岩外四社長の時代に編まれたものです。出だしに印象的な一節がありましたので、ご紹介します。電力事業が富国産業、殖産興業の時代でも民間人によって築かれたことをはっきり語っています。(むろん、福島原発事故のことは知る由もありません)


『我が国の電気事業は、先覚的な実業人による東京電燈、大阪財界を上げての事業体であった大阪電灯、京都市民の出資により発足した京都伝統、旧尾張藩士族等の経営に依る名古屋電灯など、それぞれ特徴をもっているが、いずれも民間人の手による純然たる私企業として発足した。ここに、ほかの産業とは異なった大きな特徴をみることができる。

明治初期において、政府は外圧にこうして近代的な産業の振興を図るため、「富国強兵」と「殖産興業」を目標として掲げ、関連する政策を強力に推進していった。幕府や諸藩がもっていた工場や鉱山を没収して自ら経営に乗り出したほか、新たに各種の官営工場を起こした。その後、明治十年代の半ばからは産業政策を転換し、その一環として官営工場、鉱山をきわめて有利な条件で民間へ払い下げた。こうして、明治の産業は官営をもって出発して、民間に払い下げられる形をとるか、政府補助金などの手厚い保護育成をうける形をとって、その事業基盤を確立した。

このような状況下にあって、電気事業は、政府の力をまったく借りず、大きなリスクを冒して創設された。そして、その後も、自ら新技術を積極的に導入して電力原価の低減に力を注ぎ、それによって電気料金の引き下げ、需要の拡大を図り、その結果として利益の増大がもたらされうという過程をたどり、飛躍的発展への道を歩んでいった。』

(東京電力三十年史 p19)

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