聴く、祈る、想う、歌う、通訳するのは同じこと。ICUイベント「聖なる聲」に寄せて
五線譜には書ききれない、身体から響く祈りの声。
「聖なる聲」はICU宗教音楽センターの
お二人の先生の発案によるイベント。
ICU教会にグレゴリオ聖歌、クルアーン朗唱、
ヒンディーの神々への讃歌、
そして真言宗の声明が響き合いました。
その響き、声の技法は
五線譜の世界を超えています。
五線譜に不満があるのではありません。
五線譜は視覚化した実数の世界。
五線譜の背後にある音そのもの、
虚数の世界、祈りの領域を忘れてはなりません。
これを忘れると宗教は戦いを生む。
通訳なら下手になる。
通訳が文字に残せる部分を正確に訳すのは当たり前。
上手な通訳は文字に残せない部分が豊か。
だって、徹底的に聴いているから。
言葉だけを聴いているのではないから。
文字にならない部分まで聴いているから。
これは通訳学校でいきなり身につくことではありません。
通訳学校で花開くのはそれまでの積み重ね。
それは日々少しずつ身体にしみこませること。
たとえば、朝に野鳥の鳴き声に耳をすませる。
仏壇にお経を唱えるお年寄りの声に耳をすませる。
讃美歌で一日を始める。
讃美歌で一日を始める。
そして相当量の聖書、文学作品、楽曲を暗記、暗唱する。
(暗記っていうのは勝手に体から出てくる状態。
ええと、ええとって唸って思い出すのは暗記じゃなくて明記)
こうした土台なしに通訳学校に行っても、
月謝を払い続ける立場にとどまります。
月謝を払い続ける立場にとどまります。
日々の小さな積み重ねがものを言う。
今日マイクを握ったイギリス、アメリカ、
ウイグルご出身の方々が共通語として
美しい日本語を話されたことも新鮮でした。
ウイグルご出身の方々が共通語として
美しい日本語を話されたことも新鮮でした。
「人はなぜ声を出して祈り、歌うのだろう。
きっと祈り、歌う声が含む響きをたよりに
自分を超えた次元を想わずにいられないのではないか。」
―ヒンディー音楽奏者でもあるベック教授の言葉